2001.05.01

石見発羽田行き(576便)
あとで客室乗務員(CA)から聞いた話し。
お客さんであまり乗りなれていない女性がいらっしゃったらしい。
今日の CA に言ったそうだ。
あれ、今日のスチュワーデスさんは前回の方達と違いますが、その方達はどうなさったのですか?
「ええ、客室乗務員は何名もおりますので・・・・・・」(CA)

上空で、お連れの方と二人で飲み物を頼んだ。 紅茶とビールだ。
「ビールはおつまみと一緒に、ひとつ500円になります。」(CA)
あら、そうですか?」 と、そのお客さんは1000円差し出した。
CA がおつりの500円を返すと、「飲み物2つで1000円ですよね?」
「いえ、紅茶は無料ですよ♪」(CA)
タダなんですか? 得しちゃった(笑)。

飲み物を飲みながら機内に持ちこんだ柑橘類を食べていたが、余ってしまい、CA に
良かったらどうぞ。」 と手渡した。
「え、いいんですか?」(CA)
確かに頂くのは嬉しいが、簡単にもらってしまうのも気が引ける。
仕事をしているのだから一度は断って、それでも、とおっしゃったら頂く。
ご迷惑ですか?
「とんでもない。 ありがとうございます。」(CA)

私、○○日に石見に戻るのですが、その時またお会いできますね。
「あ・・・・ はい、お待ちしております。」(CA)
息子さんに会いに東京へ行かれたのだった。

頂いた柑橘類だが、中空きの時間に CA がわざわざ手で皮を剥いておいてくれて、キャプテンと私にくれた!
なんて優しい子達なのだろう!?


昨日までのジェット気流も通りすぎ、今日はいい天気で気流も良好かと思っていたが、
上空の風は弱かったにもかかわらず、また揺れた!

天気は西から崩れだし、石見へ2回目に行ったときは、
Just Minimum(着陸が許される最低気象条件ギリギリの天気)だった。
危うく Go Around するところだった。



2001.05.02

最悪の天気だった。
大阪−高知を2往復のパターン。(401、404、405、406便)
伊丹は東の風で 32 だと Tail(追い風)ギリギリ。
離着陸は 14 かと思われたが、初便の 401 では 32 から離陸した。

朝は北よりの風だったため高知空港の使用滑走路は 32 で ILS を使えば着陸可能。
予報では高知に接近中の低気圧の影響で10時頃から 14 に滑走路が変わるはずだった。
そうなるとサークリングで滑走路の反対側に周りこまなくてはならないため、条件によっては着陸が困難になる。

とりあえず401便は北西風で ILS を使って降りれば楽勝。
405便のときに風が南東に変わり、ひょっとしたら Go Around するかも、という予想を私達はたてていた。
しかし予報よりかなり早く風が変わり、401便が高知に到着する前に滑走路は 14 になってしまった。

結果的に高知は午前中、140°から 25〜30kt 程度の強い風が吹いていたが、
視程 3000m(2400m以下になるとアプローチを開始できない)、
雲低 900ft(700ft以下になると Go Around する可能性大)で安定していたため、
最低気象条件ギリギリの Just Minimum で着陸することができた。
だが、激しい雨でもやっており、空港がかすんで見えるなか、低高度で水平飛行しながら乱気流の中を
滑走路の反対側までグルッと周り着陸するのは簡単なことではない。
キャプテンはオートパイロットをはずし黙々と操縦していたが、隣でそれを見ていた私はただ驚くばかり。
いつかこんな状況の中を、自分が機長になったら操縦しなくちゃならないんだよなぁ・・・
そう思うと、まだまだ半人前以下である自分にイヤでも気がついてしまう。

高知→伊丹の404便は伊丹空港が東よりの強い風だったために、アプローチはサークリング14 だった。
この便のアプローチも気流はガタガタだったが、高知と違い視程も良いし雲も高かったので問題はなかった。

401、404、405便とキャプテンは疲れたようだった。
最後の406便は伊丹空港の風の条件が副操縦士が操縦して良い条件に収まっていたので、
私が担当することになった。
高知空港は激しい雨と横殴りの風で、外部点検を終わって飛行機に戻ると、
カサはさしていたが制服のズボンは股までビチョビチョで足にはりつき、革靴と靴下もずぶぬれ。
どうせ伊丹まで30分も飛べば、機内は空気が乾燥しているので乾くだろう、
と思いそのままにしておいたら、案の定乾いてしまった。

伊丹空港の風は 080°から 14kt、最大20kt 吹いていたが
404便と違い使用滑走路は 14 ではなく 32 だった。
今回も気流はガタガタだったが、何事もなく着陸することが出来た。
決して悪い着陸ではなかったが、キャプテンの凄い着陸を見た後だっただけに、
自分の操縦に納得が出来ず、落ち込んでしまった。



2001.05.05

関空−仙台、関空−熊本、1往復ずつのパターン。
仙台への行き(291便)は FL370 で、帰り(292便)は FL350 で計画されていた。
北関東から東北の南にかけて 26,000〜35,000ft が揺れる予想だった。
高層天気図を見ると、どうやら原因は風が急激に減るからだったようだ。

291便の巡航 37,000ft はほぼ気流良好。
降下を開始する前に仙台のカンパニーから降下中の揺れのレポートをもらった。
FL290〜FL270にかけて 40kt の風の減速があり、揺れるとのこと。
降下してしばらくしてからシートベルト着用のサインを点灯して Descent 開始。
実際にレポートのあった近辺では 50kt もの減速があったが、ほとんど揺れなかったのには驚いた。

折り返し292便は計画は FL350 だったが、雲の上を越えて行った方がいいか、と考えFL390 に変更した。
上昇中は 25,000ft まで 300ktで上昇し、風が増える直前から 250ktまで減速しながら上昇した。
300ktで上昇中に急激に風が 50ktも増えると、300kt+50kt=350kt に瞬間的になってしまう。
A320の超過禁止速度は 350ktなので、風が増える前に機首を上げて減速しておくのだ。
この操作をすることで、同時に300ktー250kt=50kt分のスピード(運動エネルギー)を
位置エネルギーに変えることで、一気に上昇することが出来る。
揺れが強い高度をゆっくり時間をかけて通過すると乗客にとって不快だ。
短時間に通過してしまった方が揺れている時間が短くてすむ。
50ktの速度を上昇のエネルギーに使うと、約 4,000ft(1,300m)上昇できるのだ。

気流良好な 39,000ft を気持ち良く飛んでいると、管制官から 31,000ft まで降りるように、と指示がきた。
誰かが 39,000ft を飛んでいて、私達がその進路を邪魔しており、
かつ 35,000ft を飛んでいる飛行機がいるために 31,000ft まで降りるように言われてしまったのだろう。
今日は低い高度は揺れているから、きっと高いところを取りあいしているに違いない・・・
仙台の南100kmほどの地点の上空 25,000ft では、巡航中気温が−36℃ から −30℃ に急激に変化した場所があり、
そこを通過した飛行は Moderate タービュランス(とても強い揺れ)をレポートしていた。

FL310 は雲の中の飛行となるが、既に関東の北まで来ており、
高層天気図に書かれていた 31,000ft で揺れることが予想される空域は通過している可能性が高かった。
突然揺れる恐れもあったが、とりあえずシートベルト着用のサインは点灯させずに降下してみた。
少しドキドキしたが、結局揺れずにすみ、かつ関空まで In Cloud(雲の中)でスムーズだった。

次は関空→熊本(253便)。
出発前の準備を整え、滑走路の手前まできた。
離陸前には Landing Light(着陸灯)を点灯させなくてはならない。
その操作は私の担当で、Landing Light をつけるためにスイッチを動かそうとしたら、
スイッチが折れてとれてしまった!
唖然・・・・・・
右と左、2本あるうちの右のスイッチだ。
これでは着陸灯をつけることができない。
「あー、壊したぁー。」 とキャプテンにおちょくられてしまった。
規程では、着陸灯が1つ不作動でも出発は可能なので問題はない。
ただ、壊したことが「恥」なだけ。
「みんなに言っちゃおう!」 「やめてくださいよ!」 と、まるで小学生のような会話をしていた。

熊本へは FL310 で向かった。
In Cloud だったが、最初はスムーズだった。
九州に近づくにつれてガタガタと揺れが始まり、FL280、FL260、と順に高度を下げてみたが全然ダメ。
熊本のカンパニーと連絡をとったときにアプローチの揺れの状況を聞いてみると、14,000ft までは揺れが続くとのこと。
諦めるしかなかった。

14,000ft を通過すると雲の下に出ると揺れは止まったが、目の前には積乱雲がそびえていた。
入ったら死ぬほど揺れる。
その雲を北によけてさらに降下し、熊本空港を見つけてから Visual Approach RWY25 で着陸した。

折り返し254便はどの高度で飛ぼう・・・・
私の担当だから私が決めなくてはならないのだが、どこもダメな気がした。
九州kへの降下時はずっと揺れていたが、かろうじてましだったのは 23,000〜18,000ft だった。
だが、関空の近くでは 18,000〜21,000ftt が大きく揺れた。
難しいなぁ・・・
きっと 23,000ft がいいんだろうけど、とりあえず計画通り 27,000ft まで上がってみるか。

上昇中、熊本の東20マイルの辺りで 15,000〜20,000ft にかけてとても激しくい揺れが続いた。
気象レーダーには揺れるような雲は写っていないし、なんだこれは?!
キャプテンと顔を見合わせてはみたもののなすすべは全くない。
我慢するしかない。
揺れが収まりホッと一息ついて 23,000ft 通過時はまずまずの気流。
25,000ft を越えると雲の隙間から空が見えた!
そして 27,000ft は On Top スムーズ! 雲の上に出た!
さっきと随分様子が変わっていたのだ。

シートベルト着用のサインを消した・・・・・
除々に下の雲がせり上がり、松山を過ぎた辺りから雲に入ってしまった。
ありゃー、これは揺れるは。
23,000ft に降りてみるか。
管制官に降下のリクエストをして 23,000ft に降りると、揺れは見事に収まった!
あーあ、最初から FL230 で飛んでいれば良かったのかなぁ?

関空へのアプローチはカンパニーからのレポート通り FL200〜FL170 まで大きく揺れ、
さらにその下 15,000〜7,000ft の間もガタガタ。
修学旅行らしき生徒さんたちが大勢乗り満席だったが、
あまり良い思い出になるようなフライトを提供できなかったのが残念だった。

まもなくGWが終わる、ということもあり、普段静かな関空もごった返していた。



2001.05.06

伊丹−高知 を2往復のパターン。
四国の南の海上にある低気圧の影響で後半は天気が悪くなるかと思っていたが、
意外と移動速度が遅かったようで、高知空港へのアプローチに影響はなかった。

後半の1往復は私が担当していた。
伊丹への着陸はカンパニーから進入と着陸前、いずれも気流良好とのレポートを受けていたので、
管制官に指示されるままに短い方の滑走路(32R)に降りることにしたのだが、とてつもなく気流が悪かった。
これはひょっとしてゴーアラウンドするかもな・・・・

通常であれば滑走路からの高さが10m程度のところから少しずつパワーを絞って接地させるのだが、
今日は風の影響で接地点が伸びる可能性もあり、運動エネルギーも充分ありそうだったので、
30m程度のところから完全にアイドル(最小)まで絞った。
狙っていた地点にタイヤをフワッとつけられそうなタイミングで機首を引き起こし、
もらった!っと思った瞬間に追い風に変わったようで、アイドルなのに飛行機が浮き上がり、
接地点が伸びて滑走路上、恐らく1m以下の高さで漂ってしまった。
その間に 32Rの滑走路の向こうの端が迫ってくる。

どうすっかな? ゴーアラウンドしようかな?
イヤ、最後の接地帯標識(滑走路上のペイント・マーキングの一種)が見えなくなって、
1秒(注)経ってもタイヤが滑走路につかなかったらにしよう。

するとキャプテンが、「つけて」、と一言、ボソッと言った。
それもそうだ、ゴーアラウンドすると乗客が不安がるだろうし、燃料ももったいない。
到着時刻も大幅に遅れてしまう。
つけよう。
ほんの少しだけ操縦桿を戻し、ドスン、と機体を滑走路につけた。
すかさずフル・リバース。
オートブレーキが作動し、いつもと同じ地点で停止した。

滑走路の長さに制限があり、そっとタイヤをつけることが出来ない場合は、
仕方なく意図的にドスンと強めにつけることもあるのだ。
今日乗っていたお客さんには心の中で 「ごめんなさい」 と謝った。

接地前は一瞬の出来事だが、沢山のことを考えている。


注)

伊丹空港、滑走路 32R の長さ = 1828m

最後の接地帯標識までの距離 = 滑走路末端から 600m
接地帯標識の長さ = 22.5m

Cut-Off Angle( 20°)分の距離 = 12.5m
(車でいうと、ボンネットの先に見える最も手前の道路から自分のお尻の下までの距離。
 但し、これは機体が水平のときの値。
実際には接地時、機首が上がっているのでこの倍くらいだろうか?)
したがって 12.5m × 2 = 25m(先しか見えない)
前輪は自分より後ろ、約 3m 後ろにある。

接地時の速度を約 140kt(時速260km)とすると、1秒に 72m 進む。

オートブレーキを使用した場合、接地時の速度が 140kt だと、停止するまでに必要な距離 = 1030m
追い風が吹くと、この距離は 1kt につき 21m 増える。
今日は追い風 3kt 程度なので、3 × 21m = 63m
つまり、1030m + 63m = 1093m 止まるまでに要する。

最後の接地帯標識が見えなくなるまでの距離 = 滑走路末端から前輪までの距離
                            = 600 + 22.5− 25 − 3 = 約 595m
その先 1秒 飛ぶと、飛行機が進む距離 = 72m ⇒ 595 +72 = 667m
そこからブレーキをかけて止まるまでの距離 =667 + 1093 = 1760m
滑走路の長さは 1828m なので、停止したとき 1828 − 1760 = 68m 余る。



2001.05.08

関空 →(221便)→ 松山 →(237便)→ 千歳 →(485便)→ 中標津 →(484便)→ 千歳 →(DH)→ 羽田

丁度、四国から北陸にかけて厚い雲に覆われており、その間を飛び越えて西と北を飛ぶようなパターンだった。
ところが雲の層はとても厚く、高度 41,000ft 以上でなければ
On Top Smooth(雲の上で気流良好)にはならないとのカンパニーのレポートがほとんどだった。
A320 が飛ぶことの出来る最も高い高度は 39,000ft であり、その高度は西行きに使用される。
松山 → 千歳(東行き)はその一つ下の高度 37,000ft でしか飛ぶことができない。
名古屋から新潟にかけての雲頂は 39,000ft を越えていたようだ。
その辺りを飛んだ飛行機の残した飛行機雲が、大きく乱れていた。
きっとレポート通り、激しい揺れが伴っているのだろう。

中間高度も前線の影響で、大きく揺れる場所が東西に飛行すると必ずどこかに存在したので、
今日は 37,000ft で我慢するのが無難、という結論に達した。
修学旅行で満席に近かったため、出来れば快適な空の旅を提供してあげたかったのだが、無理だった。
新潟を過ぎて秋田へ向かう途中、コトコトとした揺れは続いていたが、かろうじてシートベルト着用のサインを消すことが出来た。
満席に近い時は30分ほどベルトサインを消さないとサービスが終わらないことが多いのだが、
CA が急いでくれたようで、わずか15分程度で済ませてくれた。
その後まもなく、千歳へ向けて降下を開始し揺れる雲の中に再び入ったのだが、
それまでに間に合うようにサービスを終わらせてくれてとても助かった。

千歳へのアプローチ中、青森空港のカンパニーが聞こえてきた。
どうやら天気が悪く着陸の最低気象条件を満たしていなかったようで、
飛行場の上空でホールディングしているようだった。
間もなく燃料に余裕のなくなった飛行機がダイバートして行ったのが聞こえた。

松山→ 千歳 間の巡航は芳しくなかったが、着陸には全く問題なかったし、
アプローチも比較的スムーズだったので、私達のフライトは良かった方だろう。



2001.05.09

中標津からの帰り、羽田行きは FL390 だった。
北海道から東北にかけては丁度雲の頂上(Just On Top)すれすれを滑るように飛行した。
これがとても気持ち良い。

関東に近づくと羽田行きが混雑していたようで、3機に対して管制官が飛行速度を聞いてきた。
我々の前にいる飛行機はマック0.84(速い!)。
私達は0.79で飛行中だったが、後ろがつまっているせいか0.82まで加速するよう要求された。
だが、A320は0.79以上で飛ぶことはほとんどない。
0.79では超過禁止速度に限りなく近く、ほとんどそれが最高速度なのだ。
管制官に0.79以上で飛ぶことは飛行機の性能上不可能であることを告げると、
私達の後ろの飛行機にマック0.72まで減速するように指示が出された。
邪魔しちゃってごめんなさい・・・・・

次の羽田−大館能代往復は、行きが FL290、帰り FL310 で計画されていたが、
羽田に向けて降下中、FL250 以上は雲にかかり揺れたので、FL230、FL240 に変更することにした。

羽田での中空きの時間にディスパッチへ戻る途中、巨体が私の目を釘付けにした。
「で、でかい・・・」 よーく見ると、キャップをかぶった小錦だった!?
「キャプテン。 見てください! 小錦ですよ!」
キャプテンはキョロキョロ辺りを見まわしているが、なかなか見つからない。
えー、なんで視界に入らないの?
「エスカレーターですよ!!」
エスカレーターというか、水平に動くベルトコンベヤーみたいな通路が羽田には設置されている。
普通のエスカレーターと同様、立ち止まる人は右半分に立ち、追い越す人は左半分を歩く。
そこに小錦ははまっているように見えた!
本当に大きかった。
握手をしてもらいたかったが、やはりパイロットの制服を着て追いかけるのも格好が悪いか?
一般のお客さんも変に思うだろうし・・・
止めておくことにした。
うーん、残念。
私が一般旅客だったら絶対に声をかけたのに。
制服の上着を脱ぎ、Yシャツの背中の部分に油性マジックで大きく小錦にサインをしてもらいたい・・・・・、
キャプテンと私、二人で肩を並べて歩いたらさぞ面白かったろうに。

大館能代空港は午前中から日中にかけて天気が良かったのだが、
私達が到着する直前から雷雲に覆われ、激しい雨が降り出した。
キャプテンも私も晴れ男。
CA のうちの一人が 「私は雨女です。」 と言っていたが、彼女の力によるものか?
幸い、何事もなく大館能代空港に着陸することが出来た。



2001.05.10

羽田−石見を1往復半、石見→伊丹
西から高気圧が張り出しつつあったが、その速度は遅く、西日本は鳥取近辺まで厚い雲に覆われていた。
朝方はジェット気流は東北近辺を通っていたが、予想よりかなり早く南下し、それと伴に寒気も南下したようだった。
石見→羽田は上昇ずっと揺れ、温度計を見ていると石見へ降下していた頃よりも、かなり外気温度が下がっていた。

午後に2度目に石見へ向かったときは、天気は良くなり景色が良かった。
雲はとれていたものの、39,000ft の風は正面から 160kt(時速300km)も吹いており、
石見への到着は遅れることが最初から明らかだった。
定刻につこうと思えば向かい風の弱い中間高度を飛べば良いのだが、中間高度は揺れており、
気流の悪い中を飛行するよりも少々時間はかかっても揺れない場所を飛んだ方が得策かと、FL390 で我慢した。

伊丹へ向けて石見を離陸するころには、石見空港周辺は雲一つない快晴になっていた。
とても暖かく、気持ちが良かった。
空港の北には小高い芝に覆われた丘があり、そこから離陸していく飛行機を見送る人達をよく見かけるのだが、
あの丘で昼寝が出来たらどんなに気持ちがいいだろう・・・
そんな天気だった。



2001.05.13

本州の西にジェット気流があり、西日本は高い高度、30,000ft 以上は風の増速により揺れそうだった。
松山 → 千歳 は 29,000ft で計画されていたが、より低い高度の方が良好に思われたため、27,000ft に変更した。

千歳までは約2時間かかる。
日本海側まで行けば高い高度も揺れないはずであることは分かっていた。
途中からでも 37,000ft で飛行するのと 27,000ft とで、
燃料消費がどれほど違うのかコンピューターに入力して計算させたところ、600ポンド(290kg)、と出た。
今日はお客さんが40名弱(搭乗率20%)しか乗っていないし、少しでも燃費を良くしたい。
それに必要もなく 600ポンドも余計にジェット燃料を燃やせば、それだけ空気が汚れてしまう。

27,000ft から 37,000ft までの上昇中、揺れない、という確信はなかったし、FL370 が完全にスムーズである、とも限らない。
それでもあえて上がってみることにした。
上昇中所々コトコト揺れドキドキしたが、シートベルト着用のサインを点灯させる必要はない程度のものだった。
37,000ft に到達してからコンピューターが再計算し直した燃料によると、
結果的に 1,000ポンド(450kg)もの燃料を節約できたことが分かった。
途中、揺れに対する心配はあったものの、千歳まで FL370 は気流良好で上がってみて良かった。

朝見た天気予報によると、今日の大阪の最高気温は27℃だった。
私達が485便で中標津に到着した頃、中標津の気温は26℃だった。
とても良い天気だ。
ディスパッチァーによると、日中の最高気温は、一昨日が5℃、昨日が17℃、そして今日が26℃。
中標津が26℃だった時間帯、千歳の気温は19℃。
気温の変化が激しすぎ、体調を崩して風邪をひく人が多いとか。
今日千歳空港から送り届けた107名のお客さん、体に気をつけて楽しい時をお過ごしください♪



2001.05.16 〜 2001.05.21

モルディブ珍旅行記



2001.05.24

西日本の上空には舌のような形をした気圧の谷があって、東へ進んでいた。
舌のような形、ということは、東西に向かってその谷を通過するとき、
どこかで風の方向が180°変化する、ということだ。
もちろん風が変わるところは揺れる。

関空 → 熊本 で関空を上がるころ、この気圧の谷がどこにあるかが問題になる。
気圧の谷が通り過ぎていれば巡航はそれほど揺れないし、まだ過ぎていなければどこかで大きく揺れるはずだ。
天気図、飛行機からのレポートと、私達の出発時刻を比べると、きわどいところだった。

実際に上昇してみると、計器画面上に示されている上空の風は、すでに気圧の谷が過ぎ去っていることを示していた。
だが、何故かゴトゴト、所々強く揺れた。
うーん、どうしてかなぁ・・・・・
しばらく様子をみるか?

熊本までは 20,000ft で向かったが、淡路島の近辺までは揺れが続いた。
西へ行くにしたがって次第に空の様子が変化してきた。
小豆島の上にさしかかると、それまで私達の飛行高度より上にあった雲がなくなり、青空が広がっている。
そこを過ぎたとたんに揺れがピタッと止まった。
大きく風が変わったわけでもない。
不思議だ。


今日、一緒だった客室乗務員(CA)はきつい勤務をしていた。
関空 − 宮古島 を往復後、関空 − 熊本 を往復するのだ。
考えただけでもゾッとする。
本当にお疲れ様でした。

関空 − 宮古島 を往復しているとき、その長い道中で私のうわさ話をしていた、と CA の一人が言っていた。
そして、次の熊本へのフライトに私が乗り込んできたのを見て、驚いたという。
「え、どんな話? かっこいい、とか、セクシー、とか?」
はい、はい。 もうコックピットに入ってください。」(CA)
追いやられてしまった。
何の話をしていたのだろう?
気になるなぁ。
でも、私にその話をするんだから、きっと悪いうわさ話ではないだろう・・・・・



2001.05.25

今日は CAT−V の訓練だった。
CAT−V とは自動操縦で着陸と接地後の着陸滑走をすることを意味する。
視界が悪く、霧のような状態の悪天候時、窓の外に何も見えなくても着陸して良いのだ。
確かに飛行機(A320)はオートランディングできる性能を持っているが、やはり外が見えないと怖いものだ。
視程 100m の状態の霧をコンピューター・グラフィックスが模擬をしている中で着陸を行った。
およそ時速 200km で着陸するため、ほとんど何も見えない状態に等しい。

訓練なので、当然、最も悪いタイミングで何かの装置を壊すのである。
地上 30m 以下でエンジンを故障させたり、不意に風向きを変え、飛行機が滑走路の外に流されるようにしたり、
あるいは ILS の電波に乗って着陸するので、この電波を停止させたり。

接地後もこの電波に乗って、滑走路上をまっすぐ停止するまで走るのだが、
接地と同時に電波を停止させ、横から強い風を吹かせる。
接地時にはモニターしなければならない計器が沢山あり、この電波がなくなっていることを見逃しがちなのだが、
ほっておくと滑走路から飛び出そうになる。
視程が100m しかなければ外を見てもまっすぐ走ることは難しいので、
2人の操縦士は基本的に計器をモニターすることが義務づけられている。
このため、流されて滑走路の端が急激に近づいていることに気がつかないのだ。

なにはともあれ、訓練は無事終了。
明日は CAT−V の審査だ。



2001.05.26

CAT−V の審査。
書面審査に引き続き、口頭試問を行うのだが、口頭試問そのものの数は少なめだった。
その代わり、審査官が国際便に乗務していた頃、外国で経験した自動操縦による着陸で発生するトラブルについての
経験談など、とてもためになる話を聞かせて頂いた。

審査そのものは 40分程度で終了し、何事もなく終わりホッとした。



2001.05.29

朝一の 関空 → 松山(221便)
松山へ到着して、乗客が降りていく。
しばらくして客室乗務員(CA)がインターフォンでコックピットを呼んできた。
「ひきつけを起こしてグッタリしているお客様がいらっしゃいます。 もうしばらく降機に時間がかかりそうです。」
パイロットは乗客が全員降り終わるまでコックピットで待っている。
さらにしばらくして、再びインターフォンで CA に呼ばれた。
「意識がなく、顔色が悪いので酸素マスクを使っても良いでしょうか?」
客室には万が一に備えて携帯用酸素ボンベが搭載されている。
「もちろんですよ。」
心配になった私達もコックピットを出て客室へ行ってみた。

座席の肘掛を上げ、3つのシートに小学生低学年位の男の子が横たわっていた。
横向きに寝かせられている男の子の目は大きく開き、黒目が左右に振動するように動いていた。
明らかに意識を失っているようだった。
口からは時々戻したものが出てきていた。
戻したものが気管支に入らないように上向きではなく、横向きに寝かせられているようだった。
周りを関係者、恐らく両親とその友人達が心配そうに取り囲み、見守っていた。

一向はグアムからの帰りだったようだ。
男の子が時々戻すので、ずっと酸素マスクをつけていることが出来ない状態だった。
マスクをはずしては口の周りを拭き、またマスクを当てていた。

関係者と相談して、救急車を呼ぶことになった。
私はすぐにコックピットに戻り、カンパニーで救急車を要請した。
到着までにしばらく時間がかかった。
それまでの間にお母さんらしい方がずっと子供に声をかけ続け、CA も付きっきりで看病していたのだが、
やがて男の子は気がつき、いつしか閉じていた目を開き、寝返りを打った。
良かったぁー!
それまで緊迫した重苦しい雰囲気が、一瞬でホッとしたような安堵の雰囲気へと変わった。
その後救急隊員が到着し、隊員の腕に抱きかかえられた子供と関係者は飛行機を降りていった。

定刻に到着してから、 20分経過していた。
そこから機内の清掃が始まったため、次便の千歳行きが遅れて出発することは明らかだった。
なんとか15分遅れまでつめて千歳行きは出発した。

上空で CA にインターフォンで呼ばれた。 今ごろサービスをしているはずなのに、何だろう?
「後方のお客様が、さっき一時的に気を失いかけましたが、今は大丈夫なようです。」
思わずキャプテンと私は顔を見合わせてしまった。 

CA が一通りサービスを終わり、私達に飲み物を持ってきてくれたときに詳しく話しを聞いてみると、
どうやら薬を飲もうとしてのどに詰まらせてしまったようだった。
危ない、危ない。
本当に詰まってしまっていたら大変だ。
緊急事態発生を管制官に宣言して、最寄の飛行場に緊急着陸しなければならなかったかもしれないのだ。
他のお客さんに迷惑をかけることなく、何事もなくて本当に良かった。

上空でカンパニー無線を聞いていると、時々急病人の発生を耳にする。
また、後日提出されるキャプテン・レポートにも、急病人に関するものは多い。
それでも私自身は急病人に関わったことがこれまで一度もなかった。

千歳へ到着後、中標津を往復した。
中標津に到着する頃には、松山での15分遅れを完全に取り戻していた。
千歳に戻ってディスパッチへ行くと、ディスパッチャーから FAX を受け取った。
そこには松山で救急車で運ばれた男の子が、その後どうなったかについての報告が書かれていた。
原因は疲労と脱水症状によるものだったようで、点滴を打ってしばらく休んでから自宅へ引き取ったようだった。
大したことがなくて良かった。
それに、地上に降りてから起こって良かった。
上空で失神し、目的地以外の空港に緊急着陸していたら、
家に帰るためにそこからさらに松山まで飛ばなければならなかったのだ。
不幸中の幸いとでも言えようか。

とにかく良かった。
てきぱき動いてくれた地上係員のみなさん、落ち着いて対処した CA、それに救急隊員の方々、
どうもありがとうございました!
それに、男の子のことを心配していたキャプテンと私に一早く状況を知らせようと、
わざわざ千歳にFAXを送ってくださった地上係員の方の心使いに感謝します。



2001.05.30

中標津空港に到着。
とても気持ちの良い天気だ。
羽田とほぼ同じ気温で、24℃。
つい2〜3日前までは 3℃程度だったという。

整備さんが話しかけてきた。
キツネ見ました?
「えっ、キツネですか? どこに居ました?」
整備さんの後を追い飛行機の外へ出ると、ずっと遠くを指さした。
その指の先を目で追ったが、はるかかなたで何もない。
ずいぶん視力のいい人だなぁ・・・・・

あれですよ。 あそこの山の斜面にいるでしょう? 見えませんか?

中標津空港から見える山の斜面に雪が残っている。
その雪の形が「狐」のようだったのだ。
なかなかシャレたことを言う整備さん。

きっとはるか昔の人も、そうやって星空に星座を見出したのだろう。